2022/07/15 22:02




 (1)時と遊ぶ

 案外知られていないことなんだけど、時間という奴はバラしたり、組み立てなおしたりすることが可能だ。僕の彼女は一人遊びが得意で、時間さえあればそれに熱中する。というか、彼女が彼女の時間を「時間さえあれば」弄くりまわすから、いっしょに暮らしている僕はいつがいつで、なにがなんだか、わからなくなることがよくある。
 昨日も(たぶん昨日なんだろうな)彼女は彼女の時間をばらばらにしてためつすがめつその部品を眺めていたんだけれど、ある時何かに氣づいたようにハッとした表情をしたまま、まったくうごかなくなってしまったんだ。

 *

 時の歯車をなくす人間が近年ふえてきている、と知ったのは彼女が救急車で搬入された先の医師に聞くのがはじめてだった。過去に不満を、未来に不安をかかえた人たちはそれを解消しようと今という時を弄くる。そうしているうちにどこかに部品を落としてしまって、組み立てられなくなった彼女らの時間はとまってしまうのだと言う。
 僕はそれから、彼女の満たされない何かに氣づくことのできなかったことを悔やみながら、彼女の時の歯車をさがして時を潜り、今という時間に二人で帰りつくことのできる手だてを、ずっと求めつづけている。

 (2)夜のダンス

 あれからぼくたちはずっと、地下街で暮らしている。
 そのとき世界に何があったのか、本当のところはぼくたちの誰も聞かされたことがないし、大人たちは何も答えてくれない。ただ、誰かの作った高性能なロボットが地上にいてくれるおかげで、電力はいまもまだ供給されているから、まっくらな穴のなかの原始的生活、じゃなくて、あかるい電灯を点けたり・消したりして、それなりにめりはりのある毎日を送ることができているんだ。
 そうは言ってもぼくたちはまだまだ若く、のびざかりな年頃だから、どこまで行っても空の見えない地下街は狭くてくるしく、ひどく年寄りじみた場所に感じられる。ぼくたちひとりひとりの記憶のどこかにある、消えかけてしまった青空! だからぼくたちは、仲間同士で秘密のチームをくみ、地下街を隅々までしらべまわって、大人たちの眼の届かない地上への出口を、とうとう見つけ出すことに成功したんだ。

 *

 防護スーツに身をつつんだかれらが地下鉄の階段をのぼり外にでると、そこには完全な夜があった。 
 電力はかれらの力では辿り着きようもない遙か彼方、幻のように遠いどこかで自律型ロボットによってつくられ、地下網を通り地下街へと届けられているため、​朽ち果てた都市は凍りつき、物音一つしない。何一つ光はみえない。
 太陽はとうの昔に亡んでしまい、さむざむとした漆黒の夜に、太陽の死からうまれた獰猛な電磁波の群れが眼にみえぬ亡霊として闇を飛び交い、かれらにおそいかかる。
 かれらのからだを光の速度の千倍で死へとまねく亡霊のダンス、そこにはきみょうな苦しみと悲しみ、そして悦びが同居していた。ただひとり、奇跡的に地下へと帰還し、すぐちからつきてしまった青年は死の舞踏の話をぽつりと、夢のように物語った。その夢もすぐさま、彼の体ともども光の速度の千倍で切り刻まれ、時と記憶の彼方に消え果ててしまった・・・・・・はずなのだが、こどもたちのなかでは静かに、絶えることのない微熱に浮かされた渇望が広まる。
 そしてまた今夜もかれらは、大人の眼を盗み秘密の階段をかけのぼって、夜のダンスへと繰り出していく。

 (3)駅の鏡

 東葉本線柳町駅のホームにある鏡には、ときどき変なものが映りこむのだそうです。何が映るのか、それがなんだかはっきりしないのは、目にしたものを誰かに話したり、それを聞いて誰かに話したりすると、不幸が降りかかるからだそうで、不幸になった人はそのまま死んでしまうのだそうです。
 私もちょうどその駅に行く機会があったから、鏡を覗いてみたけど、何も変なものは見えませんでした。折角だから写真をとってみたので、この手紙に同封しておきますね。

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 十年前に亡くなった文通相手からの最後の手紙が、今頃になってなぜかポストに投函されていた。手紙の消印は、命日の一週間前のものだ。彼女は同封の写真に映った鏡のなかの、陸橋から線路に身を投げて自殺したのだ、と聞いている。
 柳町駅の駅舎は八年ほど前に建てなおされて、この鏡も今はもうない。彼女が何を見たのか、もはや知るすべもないということがなぜだかとても残酷な氣がして、この写真を見るたび妙な感情がわきおこってくるのを、どうにも抑えられないでいる。

 (4)水色の底

 ワタシはメでモノをミルことができない。うまれたときからずっとそうで、それがどんなことなのか、わからないなりにハナシをきいて、いつもソウゾウしてみている。 
「イロ」という、なにかあざやかなものがあること。そのハナシをきくととてもコウフンするのだけど、このコウフンはなかなかつたえるのがむづかしい。ワタシのセカイはオトとコトバ、ネツとテザワリ、ニオイ、アジ、カゼのハダザワリとクウキカン、フンイキ、そういったカンカクでできていて、ハナシにきく「イロ」にちかいかも、とおもうカンカクは、あるにはある。メでモノをミルことができなくても、カラダでモノをかんじることはできる。だけれどワタシはやはり、メでイロをミてみたいな、とおもう。

 *

 ワタシはミズをミてみたい。
 ミズはミズイロをしている。そしてミズタマリはミズイロで、それは「カガミ」のようにモノをウツスのだという。
 ワタシはモノがミえないから、アメのトキ、アメのフッタあとにソトをあるくと、よくミズタマリをふむ。ミズタマリのミズイロと、そこにウツルケシキをおもい、そっと、ミズタマリをふむ。ミズタマリのミズのフミゴコチと、ツメタサをかんじながら、そこにあるケシキと、ミズイロのことをおもうと、ワタシじしんがソコのない「カガミ」であるような、そんなカンカクにいつもとらわれてしまう。
 だからワタシはいつか、ワタシじしんのヒミツ、ワタシじしんのフシギをとくテガカリのような、ミズイロのミズをミてみたい、そうおもっているのだ。

 (5)宇宙の繭でおどる

 アタシは海を漂うことがとても快楽で愛しい。
 内宇宙の海、脳細胞の銀河は青く、眼を閉じるとすべてに血がかよっていて赫い。深海の闇からこころの闇へ突きぬけて泳ぐ時、アタシはとても快楽が辛く愛しい。
 海ではだれもが悦楽のダンスを踊っていて、そこでは自由の不自由がくるしい。アタシは海を漂って、アタシは海を漂ってじゆうのふじゆうのダンスのパートナーを求める。じゆうのふじゆうのダンスはパートナーと二人でふじゆうのじゆうのダンスになるから。
 外宇宙の海、情報統合思念体の銀河は無色で眼を明けるとすべてに時がかよっていて淋しい。アタシは海を漂うことがとても快感で、愛しいアナタと二人孤立化した宇宙の繭でおどる襤褸(らんる)のような海月(くらげ)型の生を夢見る。

 *

 彼女は声を出すことができない。だからすべてを眼差しとからだで僕に伝える。彼女はいつも空間をあざやかに躍(おど)って、からだからからだに直に届く響きはテレパシーみたいにスパイシーで優しい波だ。
 彼女と僕はふたり、かくれた宇宙人みたいに現実の海をたゆたい、ホーボーに時を彷徨う海月型宇宙生活者のネットワークをつなぐへんてこな仕事をして毎日を暮らしている。キミがもし海月型宇宙生活に興味があるなら、月夜の晩におのおのへんてこなダンスを踊る内宇宙の祀りに、ぜひ参加してほしいと想うよ。

 (6)約束された海へ

 記憶のなかの忘れられない光景がある。
 あなたは海にいて、波をみていた。波打ち際に素足のままたたずみ、うちよせる波の白い飛沫(しぶき)、青いうねりにみとれ身じろぎひとつしない少女をみていた。波打ち際に素足のままたたずみ、その少女の眼差しをみつめるもうひとりの少女をみていた。あなたはその海を知らず、二人の少女のことも何一つ覚えがない。ふたりの少女がどちらからともなく手をつないで、海へと一歩足を踏みだそうとするところでその光景は終わる。

 *

 あなたはいま、その光景を眼の前にしている。
 あなたは海にいて、波をみている。波打ち際に素足のままたたずみ、うちよせる波の白い飛沫(しぶき)、青いうねりにみとれ身じろぎひとつしないあなたの娘をみている。波打ち際に素足のままたたずみ、娘の眼差しをみつめるもうひとりの少女をみている。あなたはおどろきにうちふるえた肩を妻によせて、ふたりの少女が手をつなぐ様子をみている。ふたりが手をつないで、海へと一歩踏みだそうとするところから、約束された人生の奇跡がはじまる。

 (7)光る山々

 海には山があり、山には海があることはごく限られた人々のみの閉ざされた秘密だ。かく言う私も或る人物からその事実を告げられ、後日その光景を目の当たりにする機会を得るまで、この神秘家は何を言いだすのか・・・・・・と訝ったものである。
 それ程までにこの事実は人びとを狼狽させ、不安に落とし込み、懐疑的にさせる。海には山があり、山には海がある・・・・・・。「海にある山」は光る山々であり、その山を登る機会を与えられた者は誰もがみな光を失う。そして「山にある海」の幻像を索(もと)め、残りの生を常闇の底でおくる始末となる。つまり私もその一人なのだ・・・・・・。

 *

「山にある海」と題された絵画を描いた盲目の画家は、その油彩画を描き終えると同時に失踪し、以後行方不明のまま十数年の時を経ている、と聞いた。
 盲目の画家の描いたその油彩画は、絵の具の色がふかく混ざりあいどこまでも黒く、くろく冥(くら)い波の底に無限の光の色がきらめいているのだ、と聞く。その絵画の特性上、写真におさめることは困難で、画家自身がかたくなに撮影を拒否したこともあってその油彩画のコピーを眼にすることはできない。
 画家の失踪後、その絵画は或る好事家の元に渡り、その好事家は絵と共に「山にある海」の近くに暮らしているのだ、と、謎かけのような話が密かに噂されつづけている。

 (8)記憶の村

 僕が大学を卒業した最後の年、彼女が大学院に進んだはじめの年に、僕たちはあるフィールドワーク・プログラムの一環でその村を訪れることになった。社会人類学の調査対象としてその村が選ばれた理由を、教授はなぜか曖昧にはぐらかしているような印象があって、何となく覚束ない、両親の郷里にはじめて里帰りする子どものような心もちで旅行の準備を進めていた覚えがある。
 当時はまだ交通網のととのっていないその山奥の孤立した村で、調査を進めていくにつれ僕が微かに氣づき始めたのは、そこに暮らす人びとの多くがまだ神という概念を信じている、という事実だった。今では全くの虚構として忘れ去られつつあるその言葉を、困惑した僕が彼女に告げたプログラム最後のあの夜。恍惚とした奇妙な対話をかわしたあの夜を最後に、彼女は荷物ごと姿を消して今も消息がわからないままだ。

 *

 彼がいま物語る話にはいくつもの記憶の混濁があって、わたしはその混濁のなかに湧きあがっている風景の姿をただ静かに眺めている。彼とわたしの関係、時と場所の輪郭、その夜交わされた対話の内容もすべてが少しずつ実際のできごととは違っていて、そのあとわたしが失踪することもなく、今もあなたの隣にいるのだと語りかけたり、事実と並べてまちがい探しをしたりすることに疲れたわたしは、彼のなかの風景をただ眺めて、その中にいるわたしたちの生をそのまま受けとめてみることを覚えた。
 彼の記憶のなかにある村でわたしは何を聞き、何を見いだして姿を消してしまったのだろう? この不可思議な謎がいつかは解けるのだとわたしは信じていて、今日も彼の居る病室の窓辺から、その村に吹く風のにおいや木々の響きに、そっと身をまかせて日々を過ごしている。

 (9)神を殺した男

 昔あるところに、神を殺すと噂されるひとりの男があった。
 いつのころからだか、覚えている者もいない遠い過去に、村の外れにひっそりと棲み着いたのだと、物知り顔に物語る人もあるにはあったが、確かなことは何も、誰にも分からない。
 村には表立って口にする者の誰ひとりいない暗黙の了解があり、それは神の祀りに関わることであったため厳重に守られてきていた。それでもやはり、というか、あるいはむしろそれゆえにか、たびたび必要にかられ、村人の誰かに神の祟りが降り懸かることがあった。
 そんな時には必ず、男はその家に出向くとこそこそ何かまじないめいたことをして帰るらしいという噂で、誰もが怪しみ近づかぬようにしていたため誰もその様子を見た者はないが、男の帰った後にはいつでも、ぴたりと祟りが止むのだ、という話を、不思議に思う者はやはり少なくなかった。
 一体誰が言い出したことなのだか、男は次第に神を殺す者だと噂されるようになり、心に何か後ろめたいものを持った幾人かの村人が、密かに男の元を訪ねた。けれども、男はただ黙って彼らの言葉に耳を傾けるだけで、返事をすることも、自ら口を開くこともなかった、という。そもそもこの話も、村人が表立って口にすることのない内々の噂で、そんなことが本当にあったのかどうか、確かなことは何も、誰にも分からなかった。

 *

 そんなある日、ひとりの女が神の祟りで病の床に伏せっている家に、男が姿を見せた。男がひとり家の外で、奇妙な道具を手にひとしきりまじないめいたことをしている処へ、噂を耳にして苦々しく思っていた村の呪術師が勢いも物凄くおしかけ、罵り、怒りの果てに男に刃物を突き立ててしまう。
 と、何だか妙に氣の抜ける、ぽやんとした音が聞こえてそのまま男の姿が無くなり、不思議なことに、そんな男がいたのだという記憶もきれいさっぱり、村人の頭から消え失せてしまった。というか、あるいはむしろすべては噂のなかだけの話で、そんな男は初めから、どこにもいなかったのだろうか?
 それからのち、村では神の祟りが無くなり、それと同時にあっただろう恩恵も得ることができなくなった。けれども、なぜそうなったかに関する確かな出来事の記憶をもたない村人たちは、どこか辻褄の合わない余白の感覚を抱きながら、今もなお、形だけ遺った神への祭祀を続け、もはや何の脈絡も見いだすことのできない、何でもなくなってしまった何かに、一喜一憂しているのだという。

 (10)絵馬

 どうしてここに来たのか、それが思い出せない。
 線香に火を点して、細白くけむる匂いに、夏の盛りの小さな堂内がことさら蒸したような氣がする。稲荷に線香? と訝ったが、そういうものなのだろう、と思い直し、香炉にそれを挿して立てた。
 ちゃりん、と背中で賽銭の音。そっとふりかえってみても、日暮れて何も見えない。ちゃりん、と境内に自転車のベルが響いて、御堂の脇にキッと停まった。くすぶる線香の煙になんだか居たたまれなくなって、そそくさと、表に出てみる。と、六十がらみの男が、親しげに話しかけてきた。
「こんばんは。お願いはなされましたか」
――いえ。この於岩というのは?
「え? ああ、お岩さん。私どものご先祖様です」
――ご先祖? お岩って云うと、四谷怪談の。
「いえ、怪談話のお岩さんとは、違うんです」
 良く解らない、という顔をすると、男は一度堂内に引っ込み、紙切れを一枚、持って帰ってきた。
「これが由緒書ですから、どうぞ持ち帰って、お読みになって下さい。それから」
――何か?
「顔色がお悪いですよ。身体にお氣をつけて」
 軽く会釈して、男は御堂脇の玄関に消えた。

 *

 由緒書にはこんな事が書いてあった。
 江戸の初め、田宮伊右衛門、妻お岩という、人も羨む仲睦ましい夫婦があった。御家人ではあるが貧しい暮らしで、その家計を支えるためにお岩は奉公に出ており、屋敷社(やしきがみ)の稲荷への熱心な信仰もあってか生活は次第と豊かになっていった。江戸の人々がそれを聞きつけ参拝しだしたのが、この稲荷の始まりだという。
 ふと、私の妻もパートに出ていて境遇は似ているけど、信心はないな、と思い、可笑しかった。
 その二百年後、戯作者鶴屋南北がこの神社の人氣にあやかり『東海道四谷怪談』を書き上げる。お岩の名を借りた怨霊劇は絶賛を博し、いつしかお岩といえば怨霊、のイメージが染み付いてしまった――へぇ。何だ、お岩は唯の女なのか。
 そういえば、いつかこの神社の話を聞いたな。たしか、妻が息子の入試のときここに来て、絵馬を書いたとか。だけど、入試はさほど関係ないし、何より絵馬なんてどこにも無いじゃないか・・・・・・。
 境内を出てすぐ前の道を、割り切れない思いでとぼとぼ歩いていると、「於岩霊堂」と刻まれた門が眼にとまった。妙に惹きつけられて、覗き込む塀越しの庭にある小さな絵馬堂。
 私はどうしても絵馬が見たくなった。
 そっ、と門の木肌に掌を触れると、私はそれをすり抜けてしまった。からだの感覚が狂って、眩暈と重い吐氣を覚えたが、とにかく、絵馬、と絵馬堂の立て板の前にたち、一枚、一枚、綴られた言葉を読んでいくと、一つの絵馬に手が止まった。そこには覚えのある妻の文字で、こう書いてあった。
「夫が早く死にますように」
  ちゃりん、と消えてゆく左手から墜ちた指輪が石畳を鳴らして、私は、自分のからだがもう此世にないことを覚った。

 (11)夢みるアナグマ

 動物が人を化かした日々の記憶も今は昔の話となり果てて久しく、今日(こんにち)その営みの業(わざ)を語り伝えることのできるものも少ない。魔魅(まみ)と呼ばれて怪しまれた過去もある狢(むじな)ではあったが、人を化かすその術(すべ)もとうに忘れ去られてしまって、今はただ畑に害をなす肥えたケモノと煙たがられているばかりだ。
 近年、夏には道端をクスリで除草する人間が多く、そのクスリの毒で身内を亡くした一匹の若い狢があった。元来のどかな氣性の狢ではあっても、肉親を殺されてしまった空しさはやはり深いようで、どうにか人を化かしてやりたいものだと、狐のところにその業を習いに行くことに決めた。稲荷に祀られている狐の家系は、今もまだ幻術の伝えが絶えていないのだと、風の噂に聞いていたからである。

 *

 最近娘が変なアナグマの夢ばかりみてその話をずっとしている。娘はどうやら学校でもずっとその話をしているらしく、今日は担任の先生から呼び出しを受けてしまった。娘の夢のアナグマはキツネに人間を化かす方法を教わりに行ったところ、まずは初歩的な練習として夢見がちな子どもの意識に働きかける魔法を教えてもらい、その練習に娘の夢に現れているのだ、とアナグマ本人が娘に語っている・・・・・・という、バラバラな娘の話を整理するとだいたいこんな筋立ての変な夢だ。
 夢の話が始まってもうひと月にもなるし、さすがに学校でも問題になるくらいの勢いで熱に浮かされたように娘はずっと話をしているから、やっぱり医者にみてもらうべきか・・・・・・と思いつつも、元来楽観的な私は娘の話にうかうかと乗せられてしまって、農薬にせっせと反対するその小さなアナグマの夢を、漫画に書いて、インターネット上のブログで公開し始めているのであった。

 (12)夏休みの図書館

 お母さん、あなたのことを想うといつも、まずはじめにわたしの脳裏には見たことのない花のすがたが浮かぶ。この花の名前をあらわすことばは、この星の上には存在しない。
 子どものころからずっと、不可解な印象としてわたしの脳裏にあった花と名前についての想念の意味に氣づいたことが、インナーネットに携わる今のしごとへと、わたしをそっと導いてくれた。
 わたしがインナーネットの存在を初めて思い出したあのころとさほど変わらず、この場所はいまも、小さな地方図書館の夏休みの光景にどこか似ている。本棚をへだてた通路を走る子どもたちの秘やかな足音、興奮や不安をおさえかねて声を交わす彼らの囁き、それらに遠く耳を澄ませながら、読書や書き物をしている数少ない大人たちのさまざまな横顔。
 その横顔の余白が垣間見せるコードに刻一刻とうながされるかたちで、この光景を終わらせてしまうしごとをしている今のわたしは、お母さん、あなたのことを想うと浮かびあがる花の名前に助けられて、インナーネットのヴィジョン探索回廊の司書としての生を、静かにそっと生きつづけてきました。

 *

 君がその音楽と出会ったのは、暇をみて通っている図書館からの帰りに、ある日氣まぐれに入ったカフェでのことだ。
『子どものいる図書館』と題されたその古めかしい音源に耳を寄せて、音楽家自身の存在が響かせている時空のゆらぎに身をまかせていたあいだにいつしか君は、ゆらめく記憶の輪郭が差ししめすその辺境の星へ向かう旅行の準備をすませ、転送の一歩手前まで来てしまっている自分に不意に氣づいた。
「この転送は安全なものではありません。予期せぬ結果をまねく可能性をもつソースが含まれています。」
 そう記された警告の前で、君はどれだけの沈黙を保ち、どれだけの可能性を見つめることができたのだろう。絶え間ない選択と転送。意味の彼方をながめる沈黙と彼女の演奏。警告をとびこえてこれから君が眼にすることになるのは、辺境の星でみたこともない花が奏でる四次元時空ヴィジョンの、ふかい幻影の姿だ。
 季節が巡り花開くたびに、その花がほんのつかのま見る夢のなかだけに彼女たちの生は存在していて、彼女が奏でている音の描きだす図書館のなかだけにいま、君は一冊の本として存在している。
 ある夏、ひとりの子どもがリクエストして届けられたこの本のなかには、彼女たちの読めないどこか遠くのことばで花の名が記されていて、彼女がそのことばを読み上げてしまうまでのあまりにも永い夏を、君は君自身であった記憶のはるか彼方で、じっと眼を凝らし、見つめつづけていることになるのだ。

 (13)花々の恋

 花々の恋はかろやかに境界を越える。世界に時めいて咲く花のすがたはあざやかで、あなたは心から花に愛され、花を愛し、涙をながす。
 異類を誘惑してやまぬ花の姿をまねて人びとは舞い、謡い、旅をして来た。花はいずれ実を結び、ちいさな種子となって世界を旅する。旅人の姿がいつもあざやかに眼に映えるのは、彼らが世界にとっての花だからだ。草木が花咲き、旅することを選んだあの時から、世界は一変してしまった。恋を忘れないで、旅を忘れないで、とすべての花が小さな声で囁く。
 今も道端に咲く花々の恋があなたをとらえて、人と草木の境界をかろやかにこえながら世界は花咲き、世界とともにあなたは旅をつづけていく。

 *

 わすれられない恋人を想い涙したしずくが、小さな花を揺らした。女は老い、あまりにも永く時は流れて、遠く土地をへだてた男の姿を、声を、もうほとんど忘れかけてしまっていたのに。男が生きているのかどうかすら、もう何も定かではないのに・・・・・・。
 花にはわすれかけ、薄れてしまった記憶を呼び起こす力がある。女はそれを怖れながら慈しみ、花を育てた。
 男は旅先の土地ですでに帰らぬ人となっていたが、女の家の庭が花咲き、彼女がなみだを落とすたびに魂は黄泉より帰り、ちいさな花となって世界に旅人の種をまいているのだという。

 (14)彼方へ

 旅に出よう、そう思い立ったのは初めて入った喫茶店の窓際の席で、街ゆく人の憂鬱な姿を眺めながらいつものオラクルカードをめくり、そこに示された、今月何度目かの同じ絵柄を眺めため息を吐いて、席を立ち、会計を済ませ、いくぶん肌寒くなった午後の外氣に触れた、その時のことだと思う。
 いま私にできる自分にとって最善のかたちは、旅に出ることだ。
 そう考えるとすっ、と心が軽くなって、あなたはふいに頬が赤らんできたように感じる。重くうつむきがちだった視線を上げ、通りの向こう側を眺める。そこには普段見なれた旅行代理店があり、いつもならそんな場所に興味をもつことはないはず、なのだけれど、このタイミングで、せっかくだからちょっと、情報を集めてみよう・・・・・・そんなつもりで足早に道路を横切り、店のガラス戸を押してなかに入った。
 そこにはちょうど、あなたのために用意されていたかのような旅行費用割引キャンペーンの情報があって、何度も何度も、カードの絵柄が示しつづけていた潜在意識からのメッセージにぴたりとあう、南の土地にある聖地へと向かう旅程がすっ、と心の地図に自由でのびやかな線を描いた。
 私のなかの、本当の自分が選んだ旅。
 そう思うとあなたは深く満足して、からだの底にいつからかあった微熱を喜びとともに感じる。表層的な世界が示しつづける、不安で、憂鬱な警告などすべてまぼろしなのだと誰もが氣づく、愛にあふれ、光かがやく未来へと向かう旅のヴィジョンにうっとりと沈みこんで、このあたたかな胸の疼きを誰かと分かちあいたい、と感じる。

 *

 わたしたちのからだに侵入した、あるいは永くそこにいて、良くも悪くも何かの活動をしている微生物やウイルスたちは、宿主であるわたしたちの意識にさまざまなかたちで化学的な影響を及ぼし、日々の行動すら左右しているのだ、という事実は、近年科学的に立証されつつある。
 彼らは彼らの増殖に適した状況をつくりだし、それを維持していくためにわたしたちの感情や、感覚、意志決定の判断を誘導するため脳内に多様な化学物質、脳内麻薬を生みだす信号を送り、腸内や血液中の遺伝情報にまで介入しているのだ、という。
 微生物やウイルスは大氣や水、土壌のなかだけではなく、ヒトや動物、植物などのからだをも含むあらゆる環境に存在している。彼らはわたしたちの言葉でいえば〈遺伝子の水平伝播〉と呼ばれる特質をもち、常時めまぐるしくモザイク状に遺伝情報を交感させて、周囲の環境に存在する遺伝情報すらも軽々と書き換え、眼に見えないかたちで、眼に見える世界の物事のうごきに深く干渉している。その環境には当然、わたしたちのからだも含まれる。そしてまた、リアルタイムで書き換わりつづけるその情報網は、量子力学のいう〈非局所的長距離相関〉によって時の束縛すら超え、この世の果ての向こう側へとひろがる、無限のネットワークを形成している。
 彼らは宇宙的なひろがりをもった情報の海、そのものであり、わたしたちもまたその海の一部。彼らが夢見るまどろみの底の、心の奥の内宇宙の海であまねく化学物質の鎖に縛られ、溶かされ、時の彼方にむけて書き換えられつづけながらも、わたしはまだ、もしかしたら本当に? わたし自身というものがあって、そこにいる、そこにいるのかも知れない? あなたに、何か、伝えられることがあるのかもしれない、という、希薄な感覚の響きを頼りに、今日もまだこの通信を続けている。
  
 (15)静物と奏でる音楽

 ぼくのお父さんはコトバが喋れない。だけど、部屋のなかにあるモノを使ってぼくに話しかけてくれる。それがお父さんのコトバだ。
 お父さんのコトバはお母さんやみんなのコトバと全然ちがっていて何だかよくわからない、と言われることが多いけど、ぼくにはみんなの言うことよりずっとわかりやすい時が多い。
 何かぼくに言いたいことができると、お父さんは部屋のなかをウロウロうろつきまわる。それから、部屋のなかにあるモノを手当たり次第もちあげてみては、あれでもない、これでもないとしかめっ面をしながらたのしそうにモノを組み合わせていく。

 *

 お父さんが何を言いたいのか、みんなのコトバで言い直すのはぼくにはむづかしくてできそうもない。でも、このお父さんのコトバでぼくらは仲直りをする。ぼくたちはけんかをしていたんだ。
 たとえばそこに本があって、ギターがあって、おもちゃの車がある。ぼくはおもちゃの車にそっとさわって、本とギターの置いてある具合を見ると、何だか涙がこぼれてくる。お父さんはわがままで、ぼくもわがままだ。ぼくたち二人はよくけんかをする。でも、こんな風にお父さんはぼくに話しかけてくれて、ぼくたちはいつも仲良く暮らしているんだ。